贅沢の真骨頂というものは無駄遣いにあるのではないだろうか。
会社の創業者が自分の胸像を立てる。竹下内閣当時の村おこし一億創生資金で一億円の金塊を展示する。などというものも確かに無駄遣いだが、そんなものはまだまだ序の口である。社長の胸像は物凄い自己満足が伴うし、村おこしの金塊は、いざと言うときの為に資金をプールしておくという意味も持つから、ある程度は有用だと言えるだろう。
アラブの大富豪に関する逸話にこんなものがある。二人の大富豪がモナコの高級レストランで食事をして、その払いを片方が持つことになった。「今日は気分がいいから俺が払うよ」てなモンである。その後市外を散歩していた二人はベンツのディーラーの前で立ち止まった。「そろそろ歩くのも疲れたから車でも買おうか」するともう片方が言った。「いや、このベンツは僕が買おう。さっき飯代は君が出したから、今度は僕が出す番だ」。大富豪って奴ァ!ビバ、オイルマネー!しかし、無駄遣いっていうのはこうでないといけない。何の衒いも気負いも無くひたすら無駄でなければ真の無駄遣い、真の贅沢だとは言えないのである。
だが我々一般人がそんな真似しようたって中々そうは行かない。飲み物を買おうとしてウッカリ100円玉を自動販売機の下に落としてしまっても必死で拾おうとしてしまう、かくも小さき我々には。そんな我々が贅沢に浪費できるのは時間であろう。時間も有限であるが、それを無駄に使うのも又一興、そんな気分になったときに有用なのがコレ、清涼院流水の『コズミック』そして『ジョーカー』である。一応ミステリであるのだが、何と言おうか、「あぁ、俺、ものすっげぇ贅沢したなぁ」と感じること請け合いである。寒くてきついキャラクター。どう考えても必要な文章量より3倍も4倍も長い構成。広げるだけ広げた大風呂敷。そして、そしてその風呂敷の畳み方たるや筆舌に尽くしがたく、大部文庫四冊を読み終えたあとには無我の境地であり禅マインド。世界を悟りきったような平らな気持ちに成れると思ってもらっていい。まぁ2分後にはムカムカして仕方ないので臨在禅師義玄の「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す」という教えが正しいことを実証していると言えよう。一応ミステリという体裁だし、大風呂敷を広げている最中は謎が非常に魅力的なのでネタバレはしない。時間が有り余って何に使っていいかわからない、若しくは物凄く忙しいけどもっと自分を追い込みたい。そういう時に読むと素敵だと思います。
まぁ一言で言うと読んでも無駄だよってことです。