妖怪道中記

今日の午後は読書に充てて『豆腐小僧双六道中ふりだし』読了。
最近は読んだ本の事とか全く書いてないので何を今更、という感じではあるが。
 

  • 豆腐小僧双六道中ふりだし』京極夏彦 講談社 ISBN:4062122146  
    • 基本的に読む前に情報を入れないのでこんなに京極の妖怪好きが炸裂している本だとは思わなかったのでございます。例の有名な京極堂シリーズでも妖怪好きは炸裂、妖怪講釈が跋扈しておるわけですがそこはホレ、それとは質の違う講釈が横溢しておるわけですな。
    • それ以前に京極堂シリーズでは妖怪講釈がストーリーの補足的な扱い、言わば磯辺焼の海苔*1みたいなノリで書かれてるのに対して、豆腐小僧では補足的どころか妖怪講釈、すなわち「豆腐小僧はナニモノか」というのがストーリーの中心になっちゃてるわけですな。当然講釈の占める居地も違うし講釈の内容も違うんでございますな。京極堂では個々の妖怪の性質素性故事来歴、言わば妖怪プロフィールについて中禅寺が語っておるわけですが、豆腐小僧のほうは個々の妖怪なんざメではない。「妖怪とはどういうものか」について登場人物(妖怪)が、そして京極夏彦本人が語り倒すんでございます。そしてそれがストーリーの中心。もうやりたい放題好き放題。京極夏彦による妖怪のビルドゥングスロマン、それが『豆腐小僧双六道中ふりだし』なンであります。
    • まぁ江戸の妖怪自身が西洋合理主義の考え方で以って妖怪を分析してるのが納得いきませんが、作者本人の考えを妖怪に喋らせるとそうなってしまうんだから仕方ないのか。
    • なんにせよこんな小理屈こね回したウンチク小説、しかも題材が妖怪で内容は観念論的なんて酔狂でヤヤコシイものが何十万部も売れてかなりの人間が楽しんでるなんて、日本もまだまだ捨てたもんじゃねぇなと思いますよ。

 
さて、京極夏彦ってのは売れてるにしろ特異な作者であるなぁ、と。京極の読者は意識的に京極を読んで居るのではありませんでしょうかね。あの読む前に多少気合を入れさせられるぶ厚いサイズの本、という体裁も「意識的に京極を読む」と言うのに一役買ってるのは間違いないでしょうが、なんにせよ「わたしは京極を読んでいるんですよ」という意識を持って読んでる人が多いんじゃねぇかなぁ。
例えばハリポタやセカチュー読んでる人にはそういう「気負い」みたいなのは無いはずなんです。そりゃ「ハヤリモノを読んでる」という気負いが全く無いとは申しませんが京極の場合とは全然違うんですね。売れてるし読んでみようというマインドのハヤリモノの読者とは違って京極夏彦の読者はそこで敢えて京極を選んで読んで居るわけです*2
つまり自分を含め京極読者には、自らマイナーウェイを行くような、又は苦行を引き受けるような言わば選民思想的な、と言っては大げさでしょうが何らかの特権意識、みたいなものが働いているだろうと見ているんでございます。
まぁ身も蓋も無く言ってしまえば京極読者にはオタクのケがあるよって事なんですけどね。オタクっつってもアニメ大好き萌え〜なんてのに限ってるわけではなく、何によらずコアな、マニアックな道に進む素質があるだろうということですね。コレ読んでる京極読者のアナタ、身に覚えがあろう。ん?
正直なところ、マニアとは言わなくても何かのコダワリがある人ってのは僕ァ好きなんですよ、自分の好きなジャンルでもよく知らないジャンルでも何がしか濃い話を聞かせてくれたりで話してて楽しいですからね。それを見分ける踏絵の一つとして京極が機能してる事も結構あったりするんございますがね。

*1:磯辺焼はモチが主体だけど海苔がないと磯辺焼じゃないですよね?そんな感じ。て、わかりにくい例えではございますが。

*2:読者層が被らないと言うわけではございませんが、ハヤリモノも京極も読んでるという方はどちらかと言えば京極を意識してる人が多いはず